一生使い続ける本物とは一体何が違うのだろうか

 「本ばれん」の魅力と奥深さを最初に僕に教えてくれたのは、画家の彦一彦(げんかずひこ)のエッセイだった。彼もまた十数年前、浅草にある竹皮屋「金子商店」で偶然その世界に引き込まれ、そのときの驚きをこう綴っている。

 オヤジは立ち上がると戸棚の中から大事そうに一枚のバレンを出してきて示し、包んである竹皮の一ヶ所を切って、中の芯を見せた。ウズ巻き状になった特殊の糸が中から現れた。

「本当の浮世絵はねえ、このバレンじゃないと絶対に摺れないんだよ。このバレンはね、ほら、この竹皮のスジがあるでしょ。この真ん中の一番いいところを一本一本バレン師がつむぎ出してね。それによりをかけて長い糸状にする。そうして縒(よ)った糸をね、さらに何本かづつ縒り合わせてね・・・(中略)・・・・・・これひとつありゃ一生もんだ。プロの摺り師はこういうバレンを何枚も持ってて使い分けるんですよ」

 “一生もの”という響きは、多くの消耗品に囲まれて暮らす僕たちにとってはすこぶる新鮮だ。けれど反面、にわかには信じがたいという気持ちも湧いてくる。悲しいかな、それは今日の物と人間との関係から生じる偽りのない心情ではないだろうか。

 だからこそ本物を見たい、と僕は思った。

 彦氏を訪ね、初めて本ばれんの実物にふれた。重量からして明らかに一般のバレンとは異なり、両者を交互に握ると、手応えがまるで現実と絵空事ほどに違いがあることに驚かされた。手に馴染む感じが雲泥の差なのだ。

 本ばれんには、指で握るほうの面に見える布地に漆が施されている。その下は和紙だというが、いったいどうなっているのだろうか。また、摺る面の竹皮をよく見ると、光の当たり具合によって、中から押されてできた無数のコブの跡が見える。当然、その中を見たいと思う。しかし、それにはせっかく縛ってある竹皮の口をほどくか、竹の一部を破くかしない限り無理。願わくば、どこかで製作過程を見られれば一番なのだが・・・・・。

 幸いその後、浅草の竹皮屋「金子商店」を訪れると、そこに分解した古いばれんが残されており、中身の実物にふれた。そして、ここの紹介で、バレン作りをしている二人の職人のもとへ行き、その行程をそれぞれ目の前で拝見することがかなった。このとき、本バレンというものがどれほど緻密な技の集まったものであるか、改めて驚かされた。

 ここで、本ばれんの構造についてざっと説明をしておこう。

 大きくは、中央の「バレンツナ(芯)」、それを収める「当て皮」、さらにそれらを包む「竹の皮」の3つから成り立っている。

 中央にあるバレンツナが最も重要な働きを担っている。これはシラタケを細かく裂いたものでコヨリを作り、これを撚り合わせ、最後に渦巻状に巻いたもの。撚り合わせるときにできるコブを金平糖といい、それが摺りの際に適度な加圧をもたらす仕組みになっている。

 縒ったバレンツナの数でバレンの種類が区別され、それぞれバレンの強さをも表す。  四コ、八コ、十二コ、十六コ、二十四コなどがあり、数字が大きくなるにしたがって強くなる。これらを版画の表現に応じて使い分けるのだ。

 たとえば、人物の輪郭などに彫られた細い墨の線には、バレンの当たりも柔らかくなければならない。そのため、コブの小さい四ッコや八ッコなどが用いられる。逆に背景などの広い面積をひとつの色面で塗り込める場合にはコブの大きな十六コが用いられる。こうした版画の多様な表現に、竹皮の下に隠れた部分が応えているというのは驚きだ。

 「でも、本ばれんは最初、ガリガリとコブが当たり、筋ばっかり出てしまって使いにくいんです。私らはその使いにくいものを少しずつ使いやすく慣らしていくわけです。そうして一番いい調子になっているところで取っておき、それが最も適した仕事の時に使うんです」

 現役の摺り師、久保田憲一氏はこう語る。

バレンが馴染んでいく様子は、まるで生き物のような風情がある。

 「たとえば大きな面を摺るコブの荒いバレン。そういうバレンは、ともかく最初は筋ができてもいいから摺って、その上に違うバレンで2色目を重ね、下の筋が消えるようにする。それを繰り返していくと、固いバレンの当たりがだんだん均一になっていくわけです。でも、そのスパンはすごく長い期間ですよ。それこそ何千枚と刷らないと本当にいい感じにはなりませんから。

 ですから、私が使っているバレンのなかに、ある職人さんが小僧の時に使っていたバレンがあります。当たりがすごく柔らかいので、小さな小さな面積を摺るときに取り出します。こいつはもう人ひとりの一生どころか、前の職人さんと私との二代にわたるわけです」

 これでも本ばれんは高いと感じるだろうか。


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