ひとつの完成品を生み出す手作業は人から人へと受け継がれる

 久保田氏の家で、バレンの一部を作る作業  を見せていただいた。

 常備してあるマダケをまず水に浸し、適度な湿りけを与える。適度に柔らかくなったら水から上げ、水気を拭き取る。次に、皮の元(竹の幹についていたほう)を根本から15pくらい残し、その先は切って捨ててしまう。その両側の端の部分も切り捨てる。繊維の弱いところは思い切って捨てることが肝要だという。それにしても、使える部分はあまりにも少ない。

 次に、残った皮を針のついた道具で幅1.5pくらいに切り裂く。それにノミをちょっと入れ、この切れ目を押し開くようにして折り曲げ、片方を口に加えて皮の表裏を二枚にはがしていく。それは表側の丈夫な繊維の部分だけを使うための作業だ。

 そして、この小さな皮の端切れでいったんコヨリを作る。それを専用台のクギに片方を結び付け、そこから一本一本縒り合わせていく・・・・・。

 こうしたじつに地道な手作業の末、やがては一本のバレンツナができあがる。これを渦巻き状に巻き、糸で縛れば一丁上がりだ。できあがったバレンツナは、近目で見てもこれが竹でできているとはとうてい思えない。ひとつの工芸品のような趣だ。

 文章では時間の流れまでは伝えられないが、むろんこれは1日や2日で終わるものではない。手の長さまで編むだけでも1時間半から2時間かかるというから、推して知るべしであろう。

 「みんなすごいすごいって言うけど、これも生活のためにおぼえたことですから。とにかく昔は食えなかったんですよ」

 彼の本業はもともと摺り師だが、バレン作りの発端は20年ほど前のこと。修行中は稼ぎが少なく、生活を補うための内職として始めたという。

 ともあれ手で学ぶ技術の世界は、個人から個人へという独特の閉じた人間関係のなかで受け継がれるのが常。彼もまた、当時の名人とうたわれた横山文治という個人から学んだ。狭い世界だから、この縁がやがて仕事に結びついていったという。

 この話のなかでひとつ以外だったのは、久保田氏が学んだ頃からバレン作りはすでにある程度分業の形を取っていたことだ。横山氏が「バレンツナ」を作り、それを収める「当て皮」は村田勝磨という名人が作っていた。当然ながら、のちに横山氏が亡くなると、久保田氏が横山氏の役を引き継ぎ、村田氏と組む。やがて村田氏が亡くなると、そこから学んだ別の当て皮作りの職人と組む形となる。

 ひとりですべてをつくったほうが確実に思えるがこうなったのも狭い世界ゆえ、互いの職域を尊重する自然ななりゆきだったという。

 しかし、僕たちにしてみれば、久保田氏と組んで当て皮をつくっている職人のところへ行かなければバレン作りの全貌がわからない。そこで、そのおひとりである五所菊雄氏を訪ねることにした。


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