書き出し ( エピソード )

数はわずかだが、今なお“浮世絵版画”を摺りつづけるひと握りの職人たちがいる。彼らあいだで笑い話として語られている、ひとつのエピソードがある。

ある職人が一日の仕事を終え、家に帰る途中のことだった。乗り換え駅で小便をもよおしトイレに立ち寄った。そのとき手にひと包みの風呂敷を持っていたが、それを洗面台に置き忘れ、そのまま電車に乗ってしまった。そして、家に戻ってから忘れ物に気づいた。

風呂敷の中身は、手のひらにおさまるほどのごく小さな物ひとつ。しかし彼にとっては、おいそれと手放せるものではなかった。慌ててすぐに引き返し、息せき切ってふたたびトイレに駆け込んだ。しかし時間を経てしまったため、置き忘れた場所にはやはり何も残っていなかった。

 気落ちしつつも、彼は念のためにと辺りを探し、ゴミ箱の中にも目をやった。するとそこに、からの風呂敷が。「ああ、やっぱり」と諦めかけたとき、ふと見ると風呂敷の中身も一緒に捨てられているではないか・・・・。

 数10分前、こんな光景があったのかもしれない。何者かが洗面台の上に小さな風呂敷を見つけた。好奇心から開けてみたところ、中から出てきたもの物は、じつにつまらないシロモノだった。男は「ちぇっ」とばかりにその場に投げ捨てて立ち去った。

 それが結果的に当の持ち主にとって幸いしたことになる。しかし反面、自分の大切なものがそうした扱いを受けたことがはっきりわかる形で発見されたわけだから、内心やや複雑な思いだったに違いない。

 これは、摺り師たちにとっての大切な商売道具、すなわちバレンをめぐるエピソードである。20年くらい前の話だが、彼らのあいだでは今でもひとつの語り草になっているという。もちろん苦笑まじりに、である。

 

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